神社は色々なところに行っていますが、私の場合、伏見稲荷神社が一番体が軽くなります。
帰りの鳥居をくぐる時にいつも気づきます。
足も、肩も、全身見違えるように軽くなっているのは、明らかにここへ来る前の体の状態とは異なります。
いつも鳴き声は聞こえるのですが、姿がなかなか見えなくて写真を撮らしてくれないあの鳥がつがいで追っかけあってました。
いたいた、カメラをそっと出してみる。
実物、けっこうデカいのね。
おはよう、いてくれてありがとう♪かわいいね♡などなど伝えたところ、
もう一羽が、あっ、こっち向いた♡
ややしばらく、ぶつぶつ言ってる私につきあってくれましたよ。
この鳥は、ちょっと近づいたらすぐいなくなっちゃうので、この写真は私にしては上出来ですね。
繁殖期なのか、尋常じゃない鳴き声で神社中に響いてました(笑)
神社巡りは、サロン開業当時はそれほど頻繁には行っていなかったのですが、気づけばいつも神社が徒歩圏内にある場所に住んでいたり、今の場所はどこの神社へいくにも実はアクセスが便利であることにのちに気づきました。
なんだかんだ、人は住むべき場所、いるべき場所にいるといえます。
自分の存在意義について昨日のブログでも触れましたが、
何か一つでも、自分がやり続けていることがあるのはその人の強みだと思います。
それが義務だったとしても、根底に愛があれば続けられます。
根底に愛が1ミリもない時は苦痛になります。
なので、仕事が面白くない時は、初心に返って苦痛を治癒させる必要があります。
それはやり方かもしれないし、単に中だるみかもしれないし、
もう辞め時か?と思う時は、神様に試されている時なのです。
私の教室に来ている会社員の方にはよく言いますが、
辞めるのは簡単です、いつでもできます。
重要なのは意図。
避ける、逃げ出す意図なのか、感謝と喜びの卒業として去るのか。
辞めるにしろ、どういう意図で辞めるかによって次の流れが決まります。
仕事って、ある程度好きとか得意とか、重すぎない負担ぐらいなら続けられますが、単に生活費を稼ぐという理由で、しかも腰掛意識では仕事ぶりはどうでもよくなりますよね。
本人よりも周囲がそれに気づきます。
自分には”好き”という自覚はなくても、無理なくできるとか、
長く続けていて気にならないとか、
長く続けてきたからこそ、やりやすいように工夫してやっていると思います。
そういうところに自分の才能が眠っている思います。
こんなことが才能といえるのか?そのくらいの感覚だと思います。
自覚はなくても経験はあるし、極めてきたことになります。
潜在意識にとっては、それが長い経験としてインプットされているので、よほどのことがないかぎり、今後もそれに危機感を感じることはないでしょう。
これは自分の才能♪と認めれば、どんなことも極められます。
これはどんな単純作業でも共通していると思います。
皆がやりたがらない仕事を自主的にかって出ることは、魂を輝かせ次元上昇を加速させます。
損などしません。神様が見ているし、知っていますから。
その損得感情があるかぎり、のちに自らですり減らす場面が多くなってきて帳尻りが合うようになっています。
自分がやったことは返ってくるし、人からやられたことに憤慨し反逆したい気持ちが芽生えることもあるでしょうが、そこは神様にすべてお任せしましょう。
神様は、真の裁きをしてくださいます。
そこを謙虚に信じて(神じて)待っていればいいのです。
ただ笑顔で感謝してやっていると、ある日尋常じゃないギフトが自分に降りてきます。
だからどうであれ、最後までやってみればわかります。
自分都合に始めて、自分の思い通りにならないからと途中で止めるのが一番何も得られないのです。
それで得られるものがあるとすれば、大きすぎる自我、自己否定、他者不信、怠惰、弱さでしょう。
ただそれをやるだけでなく、誰かに喜んでもらいたいとか、より良くしようという意図があるかぎりそうなります。
自分都合に途中で投げ出すから全部ダメになるのです。
こうなると魂のカルマを清算できず、究極の世界を知ることもありません。
続けているうちに気づけなかったことに気づくことがあるし、
続けているうちにやっと納得できることが出てきます。
続けていないと絶対にわからないこともあります。
続けてきたからこそ自信を持てると思います。
何か1つでも『これができる!』というものがあると、それをやっている時の自分にも満足すると思います。
それが誰かに喜ばれたら・・・
それがたくさんの人に喜ばれたら・・・
クリエイティブに生きましょう!